この両面から考えるのが、住まいをつくる人びとの義務だと私は思う。
だから、私は建築家として、間取りなどは、住まい手たちが自分たちでもっと考えたほうがよいと思うのである。
しかし、建築というものはさまざまの矛盾の中にあると思わないわけにはいかない。
その矛盾は、金も出さずにいい家をつくれという注文から始まっているわけだが、ダンナのいうことも奥さんのいうこともまた子どものいうこともいずれもごもっともだが、みんなちがうわけである。
限られた予算、限られた敷地、諸々の限られた条件のなかで、それらの主張がすべて満たされるような家は到底実現不可能なのである。
それはもちろん、すべての部屋が日当たりよく風通しがよいほうがいいに決まっている。
しかし、どこをどう我慢するのかということを住み手は決めなくてはならない。
そのときに、全体を公平な眼で見回してそれを決められる建築家がそこにいるといい。
建築家を英語ではarchitect(アーキテクト)という。
とするとアーキテクトは、アナーキーな状態でなくする人、やり方を整理し秩序だてる存在、それが建築家の役割ではなかろうかと思うのだ。
だから、どうやったら金が儲かるかなどと考えている建築家は困ったものである。
また、「これは自分の思想的営為の結晶としての作品である」などといった構えで住まいをつくるのも困った建築家である。
かつて、染色工芸家の故A氏の美術館をこれも故S氏がこしらえ、できあがってから「芸術新潮」誌上でカンカンになって両者が大ゲンカをしたことがある。
A氏は自分の美術館が欲しかったのに、Sさんの「建築」作品が生まれてしまったのである。
Aさんは建築家の選択を誤った。
とはいうものの、愚妻も「建築家のカミさんになったばっかりにえらく不便な家に住まわされている」とつね日ごろブッブツ文句をいっているのだが……。
つまりアナーキーは建築以前だが、mnoarchy(モノアーキー)もいけないということだ。
独裁主義的教条主義的建築家というのも手に負えないものである。
毎日暮らすところをつくるのだから、なるべく自分たちの当たり前の生活感覚と同じような生活を送っている建築士を見つけることだ。
それが注文建築においては大前提。
高枝時代の友人に建築士がいたら何はともあれ相談してみること。
棟梁から請負人になった、技術第一を標榜する工務店もあるが、近ごろは利潤追求を第一とする株式会社の工務店もあって、工費におかまいなくすこしでもよい家を建てようとする下請けの職人と、金もうけを考えている工務店側の利害が一致しないことも多い。
太陽光発電をチェックして太陽光発電に関する情報を手に入れましょう。
